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| 村の人たちは,どんなねがいをもっていたのでしょう。 |
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| ○水がほしい 餅田村の人たちは,砂地をほりおこし,どうにか作物をつくることができました。しかし,日でりがつづくと作物がすっかりかれてしまい,食べるものもないありさまでした。ところが,このころの農家の人たちは,村をおさめていた役所に,ねんぐとして,米をおさめなければなりませんでした。 このため,村の人たちは,田を開き,米をつくりたいとねがいつづけていました。 「水があったら,米がつくれるのに…。水がほしい。」ということが,餅田村の人たちの長い間のねがいだったのです。 ちょうどそのころ,島津藩でも田を開く計画がもちあがりました。 藩の計画は,思川の上流,佐多浦村(現在の吉田小校区)に水のとり入れ口をつくるということでした。 村の役人をとおして,村人に相談がありました。 |
| ※ ねんぐ 今のぜい金のことで,お金のかわりに,おもに米でおさめた。 ※ 島津藩 今の鹿児島県と宮崎県の一部を支配していました。 ※ 藩の計画 田を開くために,せきをつくり,用水路をつくったのは,小野田用水が最初です。 |
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| 餅田村は現在の姶良町です。位置は,高速道路から海岸側で,水田地帯が住宅地等にかわっています。 触田は,小野田用水路や触田いせきをつくった当時は,佐多浦の一部でした。1738年(元文2年)重富郷に編入されました。 姶良町は,昭和30年,帖佐町(餅田村が発展),重富村(触田をふくむ平松村が発展),山田村の1町2村がいっしょになった町です。 |
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