東照寺の由来
東昌小には森と文化の少年団があります。そこで常時活動として学校の隣接する東照寺跡の清掃活動を行っています。放課後に10分程度ほうきではわいたり、草を取ったりします。
江戸時代初期の遺物(お墓)ですが、東昌小とかかわりが深いのです。
東照寺の由来(その1)
もともとは東照寺という名称であったのが、いつの頃からか東昌寺といわれるようになったと郷土史にあります。東照寺については、1787年に書かれた伊集院由書記(いじゅういんゆいしょき)に記されていますが、そのときももうすでに廃寺になっていて、だれによって建立されてきたのかわからないと書かれています。ただし、梅岳寺(ばいがくじ)の末寺であったということです。
梅岳寺とは、伊集院にあります。これは、廃仏毀釈で亡くなったお寺です。梅岳とは島津忠良(日新)公のことであります。東照寺から東昌寺へかわったことについては、単なる間違いだろうと書かれています。しかしながら、そうではないのではないかという考える人もいます。封建社会の厳しい時代の中で、
名前は大きな意味を持っていたはずです。
しかも、それが、江戸幕府を築いた始祖、徳川家康の別称であればなおさら都合がわるかったのではないかと思われます。何せ、将軍家の奥方も輩出しようという薩摩藩です。「東照寺が廃寺というのでは、幕府に対して聞こえが悪いのう。他藩でも東照寺というお寺を東勝寺という具合にかえたいというではないか。どうしたものよのう。そうだ。近くに天昌寺もある。また島津の菩薩寺も福昌寺というではないか。これからは、東照寺もひそかに東昌寺といいかえよ。」と天の声が発せられたのでは・・・。
(平成19年5月)