秋の工事が始まるまでは,工事に使う材料集めが主な仕事でした。しかし,その材料集めも終わらない6月と7月に洪水がおこり,せっかく春の工事で作りあげた堤防がこわされてしまい,そのやり直し工事をすることになったのです。つらく苦しい生活,やり直しの工事,お金をたくさん使ったことや幕府の役人のしうちに耐えかねて切腹する人も多く出るようになり,その数は,38人にも達しました。さらに秋には,赤痢も発生し,そのために病死する人も出てきました。そのような中でも,平田靱負は「お前たちのつらいことはよく分かる。これからも幕府のきびしい指図は続くだろうし,ひどくもなろう。工事が終わるまでがまんしてほしい。」と言って,みんなをさとしました。
9月24日から秋の工事が始まりました。木曽や飛騨の山々から吹きおろす風,流れてくる水の身を切るような冷たさ,役人のきびしい命令やさいそく,そのようなつらさの中でも藩士たちは,靱負の言葉をかみしめながら必死になって,もくもくと工事を続けていきました。秋の工事は水行工事で,川の流れを変えさせて洪水を防ぐための一番大がかりな工事でした。平田靱負ら薩摩藩士たちは,江戸の土木工事の専門職人や付近の村人たちを多数やとって難工事を進めました。「油島のしめきり工事」を初めとしてむずかしい工事ばかりの連続でしたが,1755年(宝暦5年)3月,予定されていた工事は全部終わりました。
江戸からやってきた幕府の役人による1月の一回目の検査に続き,二回目の検査は4月半ばから5月22日までかかりました。広い工事区域を念入りに検査したにもかかわらず,悪いところは一つもありませんでした。わずか一年あまりの短い年月で,これだけのむずかしい工事を成しとげたことに,幕府の役人も「おみごとでござる。」と,感心したほどのできばえでした。
遠い薩摩の国から見知らぬ土地にやって来て,つらい生活や病気,役人のきびしい指図に耐えながら,みんなで協カし合い,はげまし合って,木曽川の治水工事は完成したのです。一番の難工事だった「油島の堤防」の上には薩摩からとりよせた松の苗木が植えられました。今でも松は青々としげり,「千本松原」と呼ばれています。
工事の途中,切腹して死んだ52名,病気で死んだ32名を除き,残りの藩士たちは工事を終
え,郷里の薩摩に帰ってきました。しかし,総奉行の平田靱負は,木曽川治水工事に関する藩への報告書を書き終えた後,多くの死者を出したこと,40万両あまりのばく大なお金を使ったことなどの責任を感じて,5月25日に美濃の大牧(養老町大牧)で
「住みなれし 里も今さらなごりにて たちぞわずらう美濃の大牧」
という辞世の句を残して切腹してしまいました。
このような平田靱負の身を捨ててまでも人の命を救おうという心がわたしたちの薩摩を戦いから守り,美濃国の人々を洪水から守ることになったのです。
そこで,治水工事から200年たった1954年(昭和29年)平田靱負の屋敷あとにつくられていた公園を整えて,「義士200年祭」が行われ,翌年には,平田靱負の銅像もたてられました。この200年祭をきっかけにして,毎年5月25日慰霊祭がこの銅像前で行われるようになったのです。また,近くの甲突川にかかる橋には,平田靱負にちなんで平田橋と名づけられました。
わたしたち山下小学校でも,この薩摩義士の精神に学び,心身ともにたくましい子供になるように「薩摩義士記念すもう・つなひき大会」を行っているのです。
(さいしょにもどる) (前のページにもどる)