校区の先人
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(大久保利通)
おおくぼ としみち
1830〜1878 |
1830年8月10日,高麗町に生まれ,まもなく加治屋町へ移り住みました。父は,名を利世といい,学問好きで儒学や歴史にくわしい人でした。
利通も青少年時代は「郷中教育」の中で育ち,藩校の造士館では,先輩の西郷などとともに学びました。14歳で元服し,藩の記録所につとめました。記録所の奉行は朱子学や国学に深い知識をもった人でしたから,好学心のあつい利通は,仕事のあい間にこの奉行から学問の教えを進んで受けました。またいろいろな学者のもとにもすすんで出かけて,理屈よりも実行を重くみる陽明学をはじめ,蘭学や日本の地理,世界の動きのことなども熱心に学び,草牟田の誓光寺では禅も学びました。こうして利通は,ニ才時代の積極的な学問や修業を通して大きく成長しました。

1849年,利通が19歳のとき,薩摩藩では「おゆら騒動」とよばれるお家騒動がおこりました。それに関係した父利世が罰せられて喜界島に流され,そのために利通も記録所をやめさせられてしまいました。それから約4年間,苦しい生活が続きました。
薩摩藩主に島津斉彬がついて3年目の1853年,利通は許されて再び記録所で働くようになりました。その斉彬がなくなった後は,藩主忠義の後見人である久光の側で働くようになりました。
1859年,利通は岩下方平や島流し中の西郷たちとともに,藩の政治を正すために,精忠組というグルーブを作り,藩の政治に大きな影響を与えるようになりました。利通は若い革新的な藩士たちのリーダーとして活躍をはじめ,久光に信頼されてどんどん出世をはじめました。そしてやがて日本の政治のことにも関係し,大事な働きをするようになっていきました。政治家としての大きなカをつけてきた利通は,1863年には,御側役という重職に任命されました。このとき32歳の若さでした。 
1863年の薩英戦争の後,利通は,ヨーロッパの進んだ知識を藩の政治に取り入れるために,開成所を作ることやイギリスに留学生を送ることにカをつくしました。これらの留学生からのいろいろな報告は,利通などが日本の進む方向を考える上で大きな影響を与えました。
利通は,日本の政治をたてなおすために,西郷さんや討幕派の長州藩・公家たちとカを合わせて,幕府をたおして新しい日本を建設していくための計画を進めていきました。そして1867年,ついに幕府をたおし,明治維新を成功させました。
1868年(明治元年),新しい時代の幕がきっておとされました。都が京都から東京へ移り,利通は新政府の高官にむかえられ,政治の改革にカをそそぎました。日本の政治を指導する参与という新政府の高官を選ぶ選挙が行われたとき,最高点で選ばれたのは利通でした。利通たちの手で版籍奉還(土地と人民を朝廷に返す),廃藩置県(藩をやめて県をおく)など,新しい国家を建設するための重要な改革や政策がつぎつぎと実施されていきました。
1871年,政府は,国内問題がひと段落すると,外交の問題に取り組み始めました。利通は,岩倉具視を大使とする使節団の副使として,アメリカ・ヨーロッパに渡り,江戸時代の末に結んだ不平等条約を改正するための予備交渉をつとめ,外国の進んだ制度や文化を学んできました。 
1877年,西郷さんを中心に鹿児島の士族たちが西南戦争をおこしました。利通は新政府の全カをあげてこれをしずめましたが,この戦争では国のためにともに歩んできた多くの先輩や友人を失うことになりました。西南戦争が終ると,戦後の鹿児島の復興につくすとともに,再び日本を近代化させていく事業をおし進めていきました。ところが戦争が終った翌年の1878年5月14日,東京の紀尾井坂で不平士族におそわれ,志なかばにして47歳の生涯をとじることになりました。利通の信念「為政清明」は,「自らを正し,けっぱくでなくてはならない」ということです。
利通の銅像は,高見橋たもとのライオンズ公園の一角に建っています。
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