山下校区の先人


(西郷隆盛)
さいごうたかもり
 1827〜1877

 1827年12月7日,加治屋町の西郷家の長男とて生まれました。隆盛は小さいころの名前を小吉,大きくなってからは隆盛といいましたが,一番く使ったのは,吉之助という名前でした。また,南洲という呼び名もあります。少年時代は,「郷中教育」で鍛えられて育ちました。また,草牟田の無参和尚の所に朝早くから座禅や中国の古典を学びに行きました。
 隆盛は,17歳で郡方書役助という役目につきました。郡方という職は,農民が藩に.納める米のできぐあいを見積もり,納めさせる役目でした。隆盛は,後に書役に昇進しましたが,この役職中に隆盛の人となりが薩摩藩主島津斉彬の目にとまりました。
 26歳のとき,隆盛は斉彬のおともに加えられて江戸にのぼり,斉彬おそば近くで仕之ることになりました。役目は中小姓といって,藩主が外出するとき,藩主を守る役目でした。その後,隆盛は斉彬にあつく信頼されて,お庭方役という大事な役職にとりたてられました。御庭方役とは,殿さまからじきじきに仕事を言いつけられたり,またじきじきに意見や報告などを申しあげたりすることのできる役目でした。隆盛はこうして斉彬によって政治の道へと導かれ,大きく成長していきました。
 1858年,日本が国を開いてアメリカやヨーロッパの国々と本格的に貿易をはじめることに決めたころ,斉彬は病気のために鹿児島で急死しました。その知らせを京都で受けた隆盛はたいへん悲しみ,自分も死のと思いましたが,僧月照の「今のあなたは薩摩の西郷ではありません。日本の国の西郷です。」という言葉に励まされ,再び国のためにつくすことを誓いました。
 このころ,幕府の政治に反対する人が増之ていましたが,隆盛も月照もその仲間でした。月照が幕府に追われてとらえられそうになったとき,隆盛は薩摩藩でかくまおうとしましたが,藩は幕府をおそれてかくまうことを拒否しました。そこで隆盛は月照とともに錦江湾に身を投げました。月照は死に,西郷は助けられて生き返りましたが,その後藩によって隆盛は奄美大島へ流されました。

 3年がすぎ,島津久光に指導されていた薩摩藩の役割が京都や江戸でだんだん重要になってきたころ,隆盛は許されて鹿児島に帰ってきましたが,しばらくして久光の怒りを買って再び3年間沖永良部島に流されることになりました。この間,国内では幕府の政治に反対する人々がますます増えていき,薩摩藩の政治も行きづまってしまいました。そこで藩は再び西郷を許し,ことの解決にあたらせることにしました。その後,隆盛は大久保利通たちとともに,新しい日本をつくるための討幕運動の中心人物として活躍し,明治維新を成功させました。
 1871年,大久保や明治新政府の高官たちが新しい政治のやり方を学ぶためにヨーロッパへ出かけていきましたが,隆盛は日本に残って新政府の中人物として日本を近代化するための多くの制作を実施しました。

 このころ,日本がのぞんだ国交や貿易を朝鮮政府が断り続けたことから両国の関係が悪くなって,日本国内には遣韓論(けんかんろん)という意見が高まっていきました。この朝鮮の問題をめぐって新政府の意見は,遣韓論を支持する西郷派とそれに反対する大久保派に分かれることになりましたが,けっきょく隆盛たちの意見は聞き入れられませんでした。敗れた隆盛は新政府を辞めて鹿児島に帰りました。そんな隆盛のあとを追って,多くの若者たちも新政府を辞めて鹿児島に帰っていきました。
 そして1877年(明治10年),新政府に不満をもつ鹿児島の若者たちは,隆盛を指導者にあおいで西南戦争を起こしました。しかし西郷軍は政府軍に敗れ,隆盛はこの年の9月24日に城山で自刃しました。このとき49歳でした。加治屋町の西郷誕生地には記念碑,城山町の国道10号線沿いにある市立美術館の一角には,陸軍大将姿の隆盛の銅像があります。

前のページにかえる