(右が向田邦子 鹿児島時代)

(
山下小学校5年ほ組担任上門三郎さんの話)
上門先生は鹿児島市平川で広い庭と木に囲まれて暮らす。種ヶ島の中種子出身。鹿児島第一師範学校を出て、種子島で教えていた。「転勤の話を聞いて、実のところ驚いた」。行き先は、鹿児島市の山下小学校。1800人の児童を抱え名門で鳴らしていた。
担任したのは五年ほ組。女子児童60人がいた。給料52円の若い教員は、児童一人ひとりの朝から帰るまでを帳面に記す。西駅近くの家の二階から天保山の松原が手に取るように見え、冬の朝礼が終わると校庭の霜柱に児童の裸足の跡が残った時代。子供はよく遊んでいた。11歳の向田邦子も遊び回っていた。
「向田は小柄でやせているのに活発な子だった」。冬でも冷たい鉄棒にぶら下がっていた。ランドセルには世界文学全集を入れていた。だれとでもつきあって遊んだ。転入生が来ると、学校から外の遊び場まで案内して回った。
「お父さんがたたきあげで保険会社の支店長にまでなった人。苦労人の長女で本人も自然に人へ気を配るようになったのだと思う」
成績は六十人の十番以内。国語はよくできたし作文もうまかった。「そのまま鹿児島にいれば、第一高女に行ける子供だった。やりだしたら途中ではおかない意志がある強い子だった」
苦労人で厳しいしつけの父親と優しい母と祖母。後年のテレビドラマに結晶する日本の折り目正しい家庭生活。加えて「日本の女の子は物事をきちんきちんとけじめをつけなければ」と弁当の後の教室のふき掃除にも手抜きを許さない担任。
5年ほ組はそのまま持ち上がり6年ほ組になる。「向田は2学期の前に転校した。戦後、ラジオの脚本家で名前を聞いてエロウナツタモンジャと思っていたら、突然インドからはがきが来た。原稿と同じ流し文字で読みにくくて、もう少し丁寧に書けと返事を書いた」
師と教え子は東京や鹿児島で再会を楽しみ、教え子は51歳で帰らない旅にたった。
鹿児島に対する思い(その1)
母は朝夕、この桜島を見ながらどんなことを思っていたのであろう。父が出張で沖縄へゆき、帰りの船が台風で難破しかかった時、母が縁側に立ってぼんやりと桜島を見ていたのを覚えている。
(鹿児島感傷旅行)
揚げ立ての薩摩揚は、その土地なりにそれぞれおいしいのだが,私にとっての薩摩揚は違うのだ。36年前に鹿児島で食べたあの薩摩揚でなくてはならないのだから…(略)一抱えもある桜島大根や、一口で頬張れる島みかんに驚いたり、キビナゴという縦縞の入った美しい小魚や壺漬のおいしさに感動した。そして、どういうわけか我が家は薩摩揚に夢中になった。土地の人達は薩摩揚といわず「つけ揚げ」という。(薩摩揚)
鹿児島に対する思い(その2)
昔の汽車の旅は時間がかかった。私は小学生の時分、あれは昭和12,3年ごろであろうか、東京から鹿児島まで28時間の旅をしている。生れて初めて2等寝台に眠り、食堂車で定食というのを食べた。眠ったり食べたりする間も汽車が走りつづけているのが子供心に不思議に思えてならなかった。鹿児島駅に着いたとき、家族7人はぐったりしていた。(爆煙旅行)
海水浴で心に残っているのは鹿児島の天保山である。四十年前の田舎の海水浴場というのは誠にのんびりしたもので、葦簀(よしず)張りの入れ込みの脱衣場と、黒いこうもり傘を立てたラムネやゆで玉子を売る小店が出ているだけであった。
(細長い海)
