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児童数の推移
| S58 | S59 | S60 | S61 | S62 | S63 | H1 | H2 | H3 | H4 | H5 | H6 | H7 | |
| 男子 | 486 | 509 | 506 | 487 | 457 | 446 | 445 | 457 | 448 | 440 | 423 | 419 | 405 |
| 女子 | 471 | 484 | 467 | 433 | 417 | 421 | 408 | 416 | 420 | 413 | 397 | 401 | 397 |
| 合計 | 957 | 993 | 973 | 920 | 874 | 867 | 853 | 873 | 868 | 853 | 822 | 820 | 802 |
| 学級数 | 24 | 25 | 25 | 25 | 24 | 25 | 25 | 25 | 25 | 25 | 25 | 24 | 24 |
| H8 | H9 | H10 | H11 | H12 | H13 | H14 | H15 | H16 | H17 | H18 | H19 | ||
| 男子 | 412 | 391 | 389 | 406 | 409 | 404 | 409 | 428 | 430 | 417 | 391 | 418 | |
| 女子 | 390 | 385 | 378 | 375 | 367 | 380 | 372 | 374 | 389 | 388 | 365 | 354 | |
| 合計 | 802 | 776 | 767 | 781 | 776 | 784 | 781 | 802 | 819 | 805 | 756 | 772 | |
| 学級数 | 23 | 23 | 24 | 24 | 24 | 24 | 24 | 25 | 25 | 25 | 25 | 25 |
歴史的環境
吉野は,歴史的には,戦国時代(弘治元年・1555年)の本に「良野」という呼び名で初めてみられる地名である。
江戸時代は,「鹿児島城下の吉野村」と呼ばれていた。この吉野村一帯は島津家の土地であり,牧場として500頭もの馬が放牧されていたとのことである。牧場は牟礼ヶ岡を中心に吉野や重富まで広がり,ペルシャ馬や百済馬を導入し,名馬を数多く生産したことで知られている。
江戸時代の若者たちは,「チェスト,関ヶ原」の気概を持ち続けるため,質素と勇敢さを誇りにし遠行を好み,牧神様参り(吉野の馬追い)も,その遠行の一つとして行われたようである。大石兵六夢物語に出てくる心岳寺(寺山)と牧神様は,この吉野東と関係が深いところである。
菖蒲谷は,江戸時代,実方から白銀坂を通り細島(宮崎)へ出ていく東目回りの交通の要所だったといわれる。現在も鳥越トンネル上から九州縦貫道(吉田入口)までつなぐ県道本名・鹿児島線は,生活幹線で交通量の多いところである。
教育の面では,嘉永年間末期(1853年),斉彬公によって「聖堂分校」が創立され,のちの帯迫の分校と合併され第12郷校(明治4年)となった。近辺の師弟はここに通い,勉学に励んだということである。その中から,桐野利秋・別府晋介・川上操六等が生まれ育ち,日本の黎明記に活躍した。
また,私学校と並び称せられる「開墾社」の壁面に南州翁の揮毫された,陳龍川の語「推倒一世之智勇 開拓萬古之心胸」は,実に有名である。このような南州翁とかかわりのある遺跡も多く残されている。
吉野東小学校開校・学校名由来
高度経済成長に伴い人口の都市集中化が進み、かつての閑静で田園風景にあふれた吉野台地も、宅地造成が進み、住宅団地が急増した。そのために、吉野小学校は年をおうごとに児童数は増え、昭和50年代初めには、2,000人を超し、適正な学校経営も難しくなり、本校開設の運びとなった。「吉野東小学校」の校名は、広大な吉野台地の東側に位置することから呼称されたものである。
教育目標
よく考え、進んで学び、心と体を鍛え、礼儀正しく思いやりのあるたくましい子どもを育成する。
校訓
かしこく・・・頭に本いっぱい
なかよく・・・心に愛いっぱい
たくましく・・・体に汗いっぱい
めざす子どもの姿
疑問を持ち、よく考える子 <知>
思いやりと実行力のある子 <徳>
心と体を鍛え粘り強い子
<体>
