校区の概要

 本校は鹿児島市の北東に位置し,市街地から約9kmの標高200〜300mの火山灰大地にあり,昭和56年4月6日に開校した。
 校区は,開校当時5つの町内会(西菖蒲谷・東菖蒲谷・中別府・上之原・平原団地)からなっていたが,昭和58年4月,吉野東中学校の新設に伴う学校区変更により,新しく中之町・吉野台団地・七社・の3町内会が加わり,8町内会となった。1小学校区・1中学校区となっている。校区民は大部分は以前からの住人であるが,近年,他の地域から転入する人が増えてきている。
 学校近くには,西郷隆盛が郷土に帰り,80余名の青年たちと寝食を共にしながら開墾に励んだ「開墾社」跡地もあり,史と景観に恵まれた校区である。

地理的環境

 雄大な吉野台地の北東部に位置する吉野東には,県立吉野公園・市立少年自然の家・寺山公園があり,市民の憩いの場となっている。さらに,この諸施設は,本校の諸教育活動に取り入れられ,おおいに利用されている。
 また,牟礼ヶ岡を中心とした風光明媚な地域も多数あり,周辺一帯緑に包まれ大気新鮮にして閑静なところである。
 火山灰におおわれた大地であるが,長年の努力で良質の土壌に生まれ変わり実りの多い畑となり,植木や近郊野菜作りが盛んとなり,鹿児島市の台所として重要な役割を果たしてきている。

歴史的環境

 吉野は,歴史的には,戦国時代(弘治元年・1555年)の本に「良野」という呼び名で初めてみられる地名である。  江戸時代は,「鹿児島城下の吉野村」と呼ばれていた。この吉野村一帯は島津家の土地であり,牧場として500頭もの馬が放牧されていたとのことである。牧場は牟礼ヶ岡を中心に吉野や重富まで広がり,ペルシャ馬や百済馬を導入し,名馬を数多く生産したことで知られている。
 江戸時代の若者たちは,「チェスト,関ヶ原」の気概を持ち続けるため,質素と勇敢さを誇りにし遠行を好み,牧神様参り(吉野の馬追い)も,その遠行の一つとして行われたようである。大石兵六夢物語に出てくる心岳寺(寺山)と牧神様は,この吉野東と関係が深いところである。
 菖蒲谷は,江戸時代,実方から白銀坂を通り細島(宮崎)へ出ていく東目回りの交通の要所だったといわれる。現在も鳥越トンネル上から九州縦貫道(吉田入口)までつなぐ県道本名・鹿児島線は,生活幹線で交通量の多いところである。
 教育の面では,嘉永年間末期(1853年),斉彬公によって「聖堂分校」が創立され,のちの帯迫の分校と合併され第12郷校(明治4年)となった。近辺の師弟はここに通い,勉学に励んだということである。その中から,桐野利秋・別府晋介・川上操六等が生まれ育ち,日本の黎明記に活躍した。
 また,私学校と並び称せられる「開墾社」の壁面に南州翁の揮毫された,陳龍川の語「推倒一世之智勇開拓萬古之心胸」は,実に有名である。このような南州翁とかかわりのある遺跡も多く残されている。