学校長あいさつ  

子供の可能性を広げ,令和時代をたくましく生き抜く清水っ子の育成

 「明治維新の町 維新に学べ 清水魂!」
 「清水魂 負けるな うそを言うな 弱いものをいじめるな」
 本校の校舎及び外壁に掲げられた横断幕と文字盤に示された言葉です。
 本校は、明治日本の産業革命遺産が数多く残され,明治維新に功績を残した偉人を輩出した清水校区に明治5年に創設された歴史と伝統のある学校です。郷中教育の教えである「負けるな うそを言うな 弱いものをいじめるな」を清水魂として受け継ぎ,「深く考え,素直でたくましい清水の子の育成」に学校と家庭が連携し,地域に支えていただきながら取り組んでいます。
 令和5年度に新たに58名の新入生を向かえ,全校児童491名,教職員43名で,力強く第一歩を踏み出したところです。
 表題にも記しましたが,10年後,20年後を見据え,混迷する社会の中でも,たくましく生き抜くための力を一人一人の子供たちに身に付けさせるのは,私たち大人の役割であり責任です。
 「大きくなったら,こんな大人になりたい。」「大人になったら,自分の得意・好きなことで,みんなを元気にしたい。」「人の役に立つ仕事をしたい。」子供一人一人に,夢をもち,ひたむきに追い求める力を身に付けさせたい。そのために,私たち大人が,「家庭で」「学校で」「地域社会で」それぞれの役割をきちんと果たし,しなやかに生き抜く姿,生き生きと輝く姿を示す。大人は,子供たちにとって,安心して頼られる存在であり,憧れの存在である必要があるのではないでしょうか。いつの時代でも大切にしてきたことが今こそ必要なのだと思います。
 清水小学校の教職員は,一人一人が学校経営参画者として意識を高くもち,組織的に取り組む同僚性と協働性を発揮しながら,「チーム清水小」一丸となって,清水小の教育に取り組んでまいりますので,これまで同様,本校教育に対する御理解と御協力を賜りますようよろしくお願いします。

 

 

令和5年度              
鹿児島市立清水小学校長 竹下 健一郎 

                      

 

 

(本校区にゆかりのある偉人の史跡)

  ○ 「西郷 隆盛」蘇生の家  

  清水寺成就院の勤王僧月照(げっしょう)は,薩摩を頼り,京都から逃げてきました。しかし,幕府の仕返しを恐れた薩摩藩は,月照を助けることをせずに,逆に,西郷に月照を切り捨てる役を命じました。落胆した西郷は,11月16日未明に,船で月照と酒を酌み交わし,錦江湾に飛び込みました。近くにいた福岡藩士平野国臣らが二人を引き揚げ,近くの砂浜で焚火をもって暖めてから,付近の坂下長右衛門宅に収容しました。そこで,西郷だけが生き返り,月              照は二度と息を吹き返すことはありませんでした。

○ 初代文部大臣「森 有禮」生誕地

 森有禮(もり ありのり)は,1847年,春日神社の近くで生まれました。18歳の時,藩の代表としてイギリスに留学しました。その後,ロシアやアメリカに見識を広めます。帰国後は,国の役人になりました。男女平等や廃刀などを早くから唱え,自分も実行して世間の人をびっくりさせました。
 1885年,日本に内閣ができると初代の文部大臣となり,小学校・中学校・大学という仕組みをつくり,教育政策にたいへん熱心に取り組みました。

○ 「伊藤 祐亨」生誕地

  伊藤祐亨(いとう すけゆき)は、1843年清水小学校の敷地内にある土地に生まれました。薩英戦争のときには、決死隊員となって活躍しました。
 1894年に始まった日清戦争では、連合艦隊司令官として指揮をとり、黄海海戦などで手柄を立てました。その働きで、軍人では、最も高い位の元帥になりました。

○ 「藤島 武二」生誕地

 藤島武二は,若い頃,父や兄と死別し,母や小さい兄弟の面倒を見るなど,苦労しながら絵の勉強を続けました。そして,黒田清輝に進められて東京美術学校(今の東京芸術大学)の先生になりました。その後も,フランスなどで絵の勉強に励みました。黒田清輝などと明治時代の洋画界の道を切り拓いた人です。「東海旭光」「芳恵」などが代表作です。
 一昨年度,鹿児島市立美術館で生誕150年記念の作品展が開催されました。

 

 

 

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