学校概要

   本校区は,東の境を交通局電車通り(騎射場・武之橋間),西を高麗本通り,南を大学通り,北を甲突川,ナポリ通りを境界に,南北に細長い3町およそ6000世帯,人口約1万人の市街地域である。
 現在の校区は,ナポリ通り・二中通り・みずほ通り・大学通りの東西に走る大通りを境に,高麗町,荒田一丁目,荒田二丁目の三町区画が整然となされ,3町内会で組織されている。
 校区内には,甲南中,市交通局,MBC放送局,サンエールかごしま,県税務署,NTT甲南分室,興正寺,ルテール教会,知事公舎等がある。校区と取り巻く歩道の花壇には,サツキ・ツツジが植えられ,4~5月には,はなやかな通りである。また,ここには,クスの街路樹が約570本あり,四季おりおりの緑が,人々の心をなごませてくれる。このほか甲突川河畔の緑地帯をはじめ,甲南公園,気象台公園,荒田公園,ルンビニ公園などの緑地帯が配置され,子どもたちの安全な遊び場になっており,校区住民の憩いの場所として利用されている。

学校経営方針

学校経営グランドデザイン

学校教育目標の具現化を目指す共通実践事項

校章の由来

三方限出身の各名士が,明治維新戦後に国家発展へ偉大な功績を残されていることに鑑み,日本の国民性を現した桜花の中に,荒田校の頭文字を図案化してある。また,桜花のような清明心で「日に新たに」向上しようという荒田校魂のねがいがこめられている。
大正11年4月4日 校章制定
                        意匠者  西村 盛明氏

長沢ぶどう

長沢鼎(ナガサワ カナエ)。1852年、鹿児島市上之園町の生まれです。彼がまだ13歳の時に、薩摩藩留学生のひとりとして,イギリスに旅立ちました。本名は,磯永彦助。1865年当時の日本には,まだ鎖国制が敷かれていたため,留学生たちは脱藩・密航者として,変名をして出国したのです。この時,長沢と一緒にイギリスに渡ったほかの留学生たちは,後年,日本に戻り,現代日本の立役者となりますが,長沢だけは日本に帰ることがありませんでした。やがて長沢だけがアメリカに渡って,ブドウ園経営に成功して,「ブドウ王」と呼ばれるまでになりました。(長沢鼎の功績を記念するためにカリフォルニアから贈られました)

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